20161004

第四十二回 日本画無料講座 みんなが不思議に思っていること

日本画の不思議 きれいじゃない作品も多数受賞!?

プロ志望の方が多く集まる公募展に行くと・・・みんな似たような作品になっていると思いませんか?素人の方のほうが好きな物描いていて好感が持てると思いませんか?私は思います!もちろん好きな物の寄せ集めのほうが見ていて単純な楽しさはあるし、え?と思うような作品も立派な作品でしょう。欲深い目的のためにわざわざ描く動機やテーマを作ってるという本末転倒な事態も日本画で起きているかもしれません。もちろん、そこに迎合せずご自分のスタイルを貫いておられる方は素晴らしいと思います。

私も応募しようかな、と思うと、好きな物を楽しく描いただけの単純明快な描き方では県展以上の公募展では賞は取れないだろうなぁ。と思うときがあります。この描き方では盛り方が少ないから飾ってもらうことはできても入賞は難しいかなぁなんて。とにかく盛ってないと、日本画で応募しても入賞は厳しいという風潮を感じています。そしてより難解にすればするほど「おっ?」と評価されるという印象も受けます。

それと、平面共通の公募展では日本画は油彩と同じ審査基準で評価されるから、日本画はぱっと見目立たないので、第一印象で淡く見劣りがして評価する側には日本画や水墨画の理解がないのではと疑問というか、不思議に思うときがあります。洋画の審査員はどうしても「一に構図、二に色彩、三に表現内容、中身ビビッとキターり延々と考えさせられるならそれでいいのよ」となりがちです。日本画の応募者が油彩の色彩や表現手法に合わそうとするのは公募展や名誉などに欲をかくか、そもそも日本画を画材のひとつとしか思ってないタイプの人がすることですから、実際に日本画で応募する人も洋画と何ら違いの無い作品が多く見られます。そうやって絵具を盛るから、どうしても汚くなっちゃうのですね。そして絵具を買うお金もない人はモノクロか黄土気味になってしまう。審査員も応募者が苦労して純粋に励んで作品を極めんとすべく作ったのか欲をかいて戦略的に作ったのかなんて見てわかるわけがありませんしどちらもあるのが現実でしょう。県展以上の大作の公募展となると、原色か暗い色を使い、遠くからでも目に留まるように目立たせ、なおかつ高い技術水準をアピールし、テーマが壮大だったりアハー体験するか人間の暗部をあれこれ想起させられるようなタイプで納得できるものであれば「どうしようかなー」というくらいには審査員の目に留まるでしょう。だからどれもこれも似たような感じで大きくて色の濃い作品がということになっています。まず最低ラインの号数の応募作品などチラ見しただけで入賞があり得ないです。もちろん暗黙の合格ラインを打ち破るほどの絵を描ければいいのですが。きっと審査員なんかも例えば南画の精神を水墨画で表現してもわかるはずないでしょう、知識がない限りは。私が思うに公募展は平面の部をごちゃまぜにしてはいけないと思います。ジャンルが異なれば考え方も表現手法も絵具の性質も、かかった費用も時間も異なるので優劣をつけることはできませんし、現代アート以外の応募者は不利になります。日本画で100号で応募するなど、庶民は借金するレベルであることを西洋画の審査員の誰が知っているでしょうか?日本画の画材も含まれるさまざまな画材をミックスしたモダンアートと水彩画、日本画と旧日本画、水墨画、版画、それぞれ分けて審査しないと、少しでも公平には評価できません。その中にも抽象画や風景、肖像画、静物画や植物画と、表現したい対象も違いますのですべてを平面という一括りの中で評価することができるはずがありません。むしろ平面の部というようなあいまいな公募展の企画は伝統を重んじる日本画家にとっては入賞のチャンスが薄い公募展ですので、せめて風景画平面、とか、描く対象が絞られている公募展にしたほうが作品を比較されても納得しやすいです。今様の「女性に蝶」とか「牛の骨に女子」とか「女性の裸体に大自然」とか「化石みたいな貝殻と人物と図形」というちぐはぐなレイヤーを組み合わせた謎系の日本画や「悩まし気な哀愁ただよう動物園のゴリラや象や羊やフラミンゴ」といった不自然な都会の暮らしに枯れて何も感じなくなった心に刺激がある作品が砂漠のオアシスの如く乾いた喉を潤すものとして評価されるので、動物園もいいけど、何だかちょっと違和感を感じます。日本画を見る側の人も「これじゃない」感を感じているのではないでしょうか。日本画と日本画の画材を使ったこのような先端アートもまた区別されたほうがよいでしょう、見せたいことや考え方が違いますから。私も詳しい事情まではわかりませんが、日本画らしい花鳥風月や伝統的な作品が出来たなら、それ専用の公募展にのぞまれたほうが、現代アート偏重の展示会などに応募するよりも、まともに見てもらえるのではないかと思います。

日本画を知る者の誰もが、巨大公募展の作品を見て「意味の分からない絵」がどうして受賞したり入選しているのか不思議に思ったことがあるでしょう。そうかといって富士山の何千番煎じは認められません。もしかしたら審査員レベルになると、作品の意図が理解できるかもしれない、私も初心者の頃はそう思っていました。偉い大先生だからぱっと見ただけで意味のわからない作品の意味がわかるのだろうと。しかしパウル・クレーが時代に理解されなかったように、意味の分からない絵はその作家について研究している専門家じゃないと意味がわかりません。今だってわかっててピカソを見ている人など少数派でしょう。わかってる人も書物で得た知識がほんとうかもしれないと思い込んでいるだけです。批評している人だって作品について理解しているとは言い難いです。つまり、どんな大先生でも小難しい作品の意図など、(あらゆる表現方法を勉強してなければ)すぐにわかるはずがないのです。水墨画のことを知らない日本画の先生が水墨画を見ても意味など知る由もありません・・・。だからあれこれ見えない意図が入った作品を理解することなど、よほど単純明快な作品でない限りは無理だと思います。しかしそういった作品が今は日本で好まれており、作者の意味を理解できなくても、過去に何とかのすごい人が使った方法だからこういうことを考えさせられてすばらしいという評価を国内で受けている矛盾。

見る人にとってはどうでもいいような女性を描いた作品。男性はエロ目線で女性を描き、女性は私目線で女性を描く。男の画家が女郎を描けば歴史に残る春画となり、女性の画家が女郎を描けば囚人同様の哀れな女性を描いた名画となる。現代でも女性が絵に入ってると、ほぼ男性の審査員が女性に目を留めないはずがないと。だからますます女性を描いた作品が溢れる・・・・。汚い絵に神聖なタイトルがつけられた作品が大きな公募展で入選したりするからみんなこぞって画面を汚す。有名になってから儲かる画風に変わる人も。昔はもてはやされなかった伊藤若冲、誰もがそのほんとう良さを知ってて崇めているというのでしょうか。少なくとも私は伊藤若冲がジョブズみたいなアメリカの金持ちの間で人気になったから日本でも人気になった事実以外は何も知りませんので、きれいな絵を描く人だな、と思う以外は名画について語れる口もありません。人生後半の横山大観など、もはや政治家ですし、卑しい世界に魂を売ったようにも見える大観のほんとうの心など、私には知る由もありません。彼らが日本画家の地位向上のために政治を行った結果、日展という巨悪が生じ内部で卑しいことが行われているとしても私たちのような末端の趣味の一般人には知る由もありません。雪舟などになると今のゲーダイみたいに小手先の技術が必須とされて育った人たちにはなんてへたくそなんだと作画意図を知る前にこき下ろされている始末です。作品を作った人の苦労を思うと私にはとても誰をも否定することはできませんが。結果や成果を追い求める時代の現実が純粋な美や作品の中の思いやプロセスを認めない、死ぬほど苦しんだ末に解脱したってバカで中身がからっぽとしか思われない、そんなこともあるのが世の中です。

人は不思議なもので、中身のことはわからないけど、有名だから飛びつく人がほとんど。私も例外じゃないし、詳しく知ろうと思ったりどうでもいいと思うのはその後から。だから海外で売れたと知った日本人が人気があるからいいものだと思い込んで日本で人気が出るマジック!人気があってお金になるからそれ買っとけ、それがお金持ち。げーじゅつなんて、そんなものですよ。

初心者の方はなおさら気楽に日本画を楽しみましょう!難しく考えずに、それでいいのです。私がいつも思うのは、ちゃんとできているのにダメだと思ってすぐやめちゃう人が多くてもったいないと思います。はっきりいってゲーダイに入学する必要なんて一切ありませんし(行っても描き方なんて教えてくれません、ハクやコネがつくだけです)、お偉い先生に習う必要なんてないし、趣味のサークルなり自宅なりで日本画を楽しめたらそれでいいじゃないですか。ゲーダイに何浪もしている時点で並外れた出世欲と野心の塊であることは否定できないでしょう。それが悪いとは言いませんけど。